名も亡きMusic【序章】
昼休みを告げるチャイムが鳴る。
聴きなれたその音をよそに、彼―――竹原奏は溜息を吐いた。
チラリと教室内のとある席を見るが
(やっぱり来てないか)
そしてまた溜息。
一体全体彼女はどこまで自分に苦労をさせる気なのだろう、なんて心の中でぼやきながらもトートバッグとヴァイオリンケースを持って席を立つ。
すると
「あ……あの竹原くんっ!」
クラスの女の子が話しかけてきた。
可愛らしい少女とはまさしくこのことを言うのだろうなと感じると同時に
(うん、めんどくさい……)
つい顔をしかめてしまった。
「え、えっとね、そのぉ……今度勉強教えてほしいんだけれど……」
ああ、またか。
また思わず溜息を吐きかけて、なんとか耐える。
このような話はよく聞く。主に女の子たちから。
(全くどうして俺に頼むんだ……)
自分よりも優しく教えてくれる人なんか周りにいっぱいいる。
正直、奏からしたらわざわざ自分に話を振ってくる意味が分からなかった。
「俺はそういうのやってないから。他当たってくれない?」
いつもの定型文を並べて「じゃあ」と今度こそ席を立つ。
「あ、うん……ごめんね」
彼女の顔を見たわけではないが、しゅんっとうなだれている姿が容易に想像できた。
「謝る必要はないと思うけれど」
何故謝るのかの意味も分からなければ、そこでうなだれる理由も分からない。
奏はしれっと一言だけ返すと、ようやく教室を出た。
(さて、と。どうせあそこだろうな)
迷うことなく廊下を歩く。
すれ違いざまに生徒たちから挨拶をされることが多いのだが、それにペコっと会釈で返しつつ、目的の場所がある扉に辿り着いた。
「……屋上、ねぇ」
本来ならばここは施錠されているのだが、ドアノブを回し、扉を押すと案の定あっさりと開く。
外に出て、今出てきた扉のある建物の上を見ると
「やっぱり……」
探していた彼女はこれまた彼の想定通りの場所にいた。
緑の長いポニーテールが風に吹かれて揺れている。奏が見たときには目を瞑っていたが、彼が来たことに気づいたのだろう。彼女の赤い目がそっと細まる。
「……はーあ、うるさいのが来ちゃったなぁ」
彼女―――梅野音葉はこちらを振り向きもせずにワザとらしくそうぼやく。
「あのなぁ……毎日探してるこっちの身にもなれよ」
流石にその態度には毎度毎度呆れてしまう。
しかしその反応を見た彼女は嫌そうな顔をせず、むしろニヤッと笑った。
「よく言うなぁ。探してるったって、いつも私がここにいるって分かってるくせに」
「うっ……」
確かにそう言われるとなにも言い返すことができない。
音葉のいる場所なんぞ夏や冬出ない限りは十中八九ここしかないのだ。
「大体、貴方は私のことになると人が変わったように過保護になるんだから」
彼女にくつくつと笑われるがこの際もうどうでもいい。
それよりも重要なことを言わねばならないのだ。
「授業出ろよ」
「やだ」
「即答かよ」
重要なことのはずなのに間髪入れずキッパリと断られてしまう。
これもまた毎日言っていた。もちろん音葉の返答も毎日聞いているものなのだが。
「お前なぁ、単位とか気にしろよ」
ここの学校は出席日数もまた単位に反映される。
「そろそろお前ヤバいだろ。というかほぼ毎日さぼってるのにむしろよく単位落ちねえな」
「出席日数だけで単位は判定されないからね、この学校は。反映されると言っているだけで、所詮は専門学校なんだから」
「お前、この世全ての専門学校生に謝れ」
確かにこの学校は専門学校だ。何も出席日数だけで決まるわけでもない。
しかし世の中の専門学校全てがそうなのではないのだ。
「ま、そういうことだから」
「……あのな」
流石にため息を吐く。
「そういうことだから、で分かるわけないだろ」
「いや、私と君の仲なら分かってくれると思うんだけれどねぇ」
「……分かりたくねぇな」
どこか分かった気もするが、あえて流そうと奏は決める。
「よっと」
その間に彼女が下に降りてきて
「……ん?」
スッと手を差し出してきた。
「なに」
「え、ご飯持ってきてくれたんでしょ?」
「…………」
全くどこまでもマイペースな人である。
無言でトートバッグから弁当を二つ出し、片方を彼女に渡す。
「ありがと、奏くん♡」
「その言い方やめろ、気持ち悪ぃ」
「もう、酷いなぁ」
「お互い様だろ」
本日何回目かのため息を吐く。
その間にも音葉は弁当を開け、呑気に「いっただきまーす」と手を合わせている。
(本当俺はどうして毎日こうやってここに来てるんだか……)
彼もまた弁当を開け、箸を持ち、ご飯を食べると
「んんー! 美味しい! やっぱり奏のご飯は最高だねっ」
彼女がすごく嬉しそうに口に運んでいた。
満面の笑みで、それはそれは幸せそうに。
「……そりゃどうも」
思わず奏が顔を背けながら呟く。
(ったく、こんなことされるから、ついやってしまうんだろうな……)
「俺もつくづく単純だな」
「んー?」
「いや、何でもない」
「ふーん?」
国立聖楽学校。
音楽の名門学校であり、彼らはそこに通っていた。
奏と音葉は同じクラスだが、技能では別の種目を取っている。
「うん、ごちそうさまっ!」
「お粗末様でした。さてと」
彼女から弁当箱を回収し、トートバックに戻すとヴァイオリンケースから楽器を取り出す。
「待ってました!」
奏がヴァイオリンを構えると音葉が嬉しそうに声を上げる。
「さて、と。今日は……」
弓を引き出すと、そこからは止まらなかった。
周囲の感覚を離していき、自分の感覚を研ぎ澄ましていく。
ここまで来ると後は流れに任せて心地よく弾くだけだ。
しばらく脳内楽譜に沿って演奏をしていると
「~♪」
「!?」
音葉の歌声で一気に現実に引き戻された。
(ったく、本当お前ってやつは……)
感覚が戻ってくる。と、同時に音葉の声に対しての感覚が鋭くなった。
「~♪」
(ああ、相変わらず見事な声だ)
彼が弾いているヴァイオリンの音と音葉の声が重なり、同調していくのを感じる。
打ち合わせも何もしていないのにそれを超える程の綺麗なハーモニーが空に響いた。
「ふー、いつもこれ気持ちいいよねー」
「全くだな」
顔を見合わせて二人で笑う。
この瞬間が例えようのないほどの幸せだった。
「音葉、やっぱりお前ちゃんと授業に出ろよ」
彼女の実力は折り紙付きだ。何より他の生徒よりもずば抜けている。
あれだけサボっていてなお単位をとれる理由は間違いなくそこにあった。
(これでまともに授業を受けていればもっと……)
しかし
「何と言われようとも嫌だよ」
彼女はキッパリとそう言い放った。
「なんでだよ」
「そんなの、私の気が向かないからに決まってるでしょ?」
「でしょ? じゃないだろうが。可愛らしく首を傾げたって無駄だ」
「本当のことだからねー」
また呑気に言い張る彼女。
「あ」
その時、タイミング悪くチャイムが鳴った。
「さて、と。行くぞ」
「え、今そんな気分じゃな……ってちょっと!」
「そんなの知るか。午後はちゃんと出てもらうぞ」
「むぅー、奏くんのいけずー!!」
「だからその呼び方やめろって!!」
バタバタする彼女の首根っこを掴んで、彼は教室へと戻った。